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永続革命とは何か?

以下の文書は、国際共産主義者同盟(第四インターナショナルリスト)の第8回国際大会で採択され、『Spartacist』[英語版]第68号、2023年9月から翻訳されたものである。


帝国主義の時代は、多数の被抑圧諸国と、経済的・軍事的に支配する一握りの抑圧諸国との間の世界の分裂によって特徴づけられる。現在の世界情勢は、米帝国主義の覇権によって特徴づけられている。この米帝国主義は、他の帝国主義諸強国(ドイツ、ブリテン、フランス、日本)と同盟し、金融資本の輸出を通じて、世界人口の膨大な人々を服従させている。植民地諸帝国の古き時代は、植民地からのむき出しの公然たる略奪で成り立っていた。こうした時代は、形式的には独立しているが実際には新植民地であったり、あるいは「大」国の経済的・軍事的恐喝で束縛された従属国であったりする国々からの略奪に、その席を譲っている。

アフリカ、アジア、ラテンアメリカや東ヨーロッパのほとんどの国々では、民族ブルジョアジーではなく帝国主義者こそ、経済的、政治的生活のあらゆる面を支配し指図して、経済的、民族的、文化的な発展を妨害し阻止している。借款、天然資源の略奪、安価な労働力、金融政策などは、金融寡頭制と帝国主義的独占がその支配を強化し、社会全体から貢ぎ物を徴収し、こうした国々を極貧状態にしておくための全手段である。

これらの国々では、近代産業は外国資本の産物である。工業と農業の最新技術は、前資本主義的な社会関係と並んで存在している。水牛や木製の道具がまだ土地を耕している地域で、工場、鉄道、鉱山、港湾が現れ出ている。外国資本が果たす支配的な役割は、民族ブルジョアジーに極めて脆弱な性格を与える。つまり民族ブルジョアジーは、支配階級の高みに部分的にしか達することができず、したがって半ば支配的で、半ば抑圧された階級の立場に追い込まれたままである。同時に、外国資本は人口をプロレタリア化し、その国の生活で中心的な役割を果たすようになる労働者階級を生み出す。強力な労働組合としばしば労働者階級諸政党の設立は、帝国主義の搾取を押し返し、もろい民族ブルジョアジーと政府に立ち向かうことができる強大な力を意味する。

国内経済の後進性、現地政府の完全な腐敗、無数のエスニック的・宗教的な分裂、前資本主義的諸関係の残存。外国の支配によって維持され強化されたこれらすべての条件は、勤労大衆の社会的解放と民族解放の間に切っても切れない結びつきを生み出している。土地、民主主義、経済発展への強い願望だけでなく、こうした極貧と民族的な屈辱への抵抗こそ、労働者と農民大衆の闘争を前進させ、彼らの最も基本的な要求に爆発的な性格を与えているのである。

新植民地諸国の発展と近代化には、基本的な民主主義的諸任務の解決が必要である。つまり国内産業と国内市場の発展には、土地改革と同様に、民族の統一と解放が必要である。民族ブルジョアジーは、支配階級としての社会的地位を一層高めるために、こうした諸問題の解決に客観的な利益を持っている。しかし、そのどれもが、帝国主義の従属に立ち向かうことを必要とする。帝国主義者との比較でその脆弱さを考えると、民族ブルジョアジーが外国資本に抵抗しようとするなら、大なり小なり、プロレタリアートと民族全体に寄りかからざるを得ないのである。同時に、有産階級として、プロレタリアートが自身の利益に対する脅威だということを自覚している。これらの利益を守るために、民族ブルジョアジーは、無数の糸でつながっている帝国主義者に寄りかからざるを得ないのである。従って、独立した役割を果たすことができないなかで、より強力な二つの勢力の間でバランスをとっている。トロツキーは次のように説明している。

「工業が遅れた国々では外国資本は決定的役割を持っている。だから、民族プロレタリアートに比べて民族ブルジョアジーは相対的に弱体である。この結果特殊な国家権力が生じる。政府は外国資本と国内資本との間、弱体な民族ブルジョアジーと相対的に強力なプロレタリアートとの間を綱渡りする。かくして政府はきわだった特性を持った独特のボナパルチスト的性格を帯びる。政府はいわば階級のうえに立つ。実際にはこうした政府が統治できるのは、外国資本の道具になり下がって、プロレタリアートを警察独裁のくびきで縛りつけることによってか、それともプロレタリアートに対してマヌーバーを使い、譲歩し、それによって外国資本に対して一定の自由な行動範囲を得ることによってか、いずれかしかない。」

—「産業国有化と労働者管理」(1939年5月)

有利な国際的諸勢力のバランスを前提として、国内の勤労者の推進力に基づき、民族ブルジョアジーは、帝国主義者に対し、民族の独立を防衛し、国民経済を発展させることを目的にして、国有化、土地改革、その他の進歩的諸方策を実行することができる。1938年のラサロ・カルデナス下のメキシコでの石油国有化とか、1956年のエジプトでのガマール・アブドゥル=ナーセルによるスエズ運河の占領は、この過程での典型的な例である。しかし、ブルジョアジーは、自身の目的のため、自身の方法で、こうした諸方策を実行するのである。彼らは、被抑圧者の社会的・経済的願望を、自らの階級支配が容認できる範囲内に封じ込め、誘導するために、民族解放闘争の先頭に立ち続けようとする。これは帝国主義者に対する半支配階級としての自らの立場を改善するためである。

従属された国々のブルジョアジーは、帝国主義に対する本格的な闘争には、大衆による革命的な動乱が必要だということを十分に気付いている。民族ブルジョアジーはまた、これが自分自身への脅威になることを認識している。トロツキーは次のように書いている。

「民主主義的または民族解放運動はブルジョアジーが搾取する可能性を深めかつ広げる機会を与えることになるかもしれない。しかし、革命的な争いの場におけるプロレタリアートの独立の干渉は、ブルジョアジーから彼等が搾取する可能性を全く奪い去ってしまうかもしれないのである。」

—『レーニン死後の第三インターナショナル』(1928年)

従って、ブルジョアジーは大衆を自らの背後に動員するなかで、その大衆を厳しく統制しておかなければならない。つまり革命諸政党を打ち砕き、時には労働官僚を通じて、時には組合を直接国家に統合することによって、労働組合に対し強力に支配を維持する。そして国家支配の農民諸組織の創設を後押しなどする。階級闘争、土地奪取、独立した労働組合や農民組織を結成しようとする試み、つまり大衆による独立した反帝国主義の行動のいかなる努力も、血なまぐさい弾圧にさらされる。真の民族解放と近代化を実現できる唯一の勢力、すなわち農民と同盟した労働者階級を抑圧することによって、民族ブルジョアジーは、社会革命をくい止めるだけでなく、反帝国主義の闘争をあらゆる段階で妨害し、裏切り、帝国主義による反動への扉を開くのである。資本主義財産への結びつきのため、プロレタリア大衆に対して階級的利益を防衛する必要性のために、民族ブルジョアジーは、民族解放と土地革命の諸任務を解決することができないだけでなく、この過程において徹底して反動的な役割を演ずるのである。

プロレタリアートだけが、その背後に農民大衆と都市の小ブルジョアジーを結集し、外国資本のくびきを打ち破り、土地革命を完遂し、労働者と農民政府の形で、勤労者のための完全な民主主義を確立することができる。トロツキーは、『永続革命』(1929年の最初のロシア語版への序文)の中で、ロシアに関連して次のように説明している。

「わが国のブルジョア革命は―と私は結論づけた―、プロレタリアートが何百万・何千万もの農民の支持にもとづいて革命的独裁をその手中に掌握する場合のみ、自己の課題を急進的に解決することができる。

「この独裁の社会的内容はいかなるものになるであろうか?この独裁はまず何よりも、農地革命と国家の民主主義的刷新を徹底的に遂行しなければならないだろう。言いかえると、プロレタリアートの独裁は、歴史的に遅れてやってきたブルジョア革命の諸課題を解決する手段になるであろう。しかし、事態はそこにとどまることはできない。権力を獲得したプロレタリアートはますます深く私的所有関係一般に干渉することを、すなわち、社会主義的措置の道に移行することを余儀なくされるだろう。」

ある国でのプロレタリアートによる権力掌握は、革命を完成させるのではなく、単に革命を開始するだけである。後進諸国を近代化し、国内産業と市場を発展させ、大衆を貧窮から脱出させるためには、これらすべてが、最高水準の技術と生産性と世界市場つまり国際的分業へのアクセスを必要とする。しかし、これらはすべて帝国主義の支配下にある。世界帝国主義が存続する限り、一国での獲得物は、帝国主義による窒息と絶え間ない転覆の脅威に依然としてさらされ続ける。新植民地での革命の勝利と社会主義の発展は、世界舞台における帝国主義の敗北を、すなわち、帝国主義の中心地への革命の拡大を必要とするのである。

従属諸国では、この目標に向けた第一歩は、革命諸党を鍛え打ち固めることである。その主要任務は、反帝国主義闘争の指導権を民族ブルジョアジーの手から奪い取ることである。これは、民族解放のための闘争を最後の結末に至るまで推し進めることによってのみ達成できる。その過程では、大衆の前で、ブルジョアジーのあらゆる動揺、屈服、裏切りを暴露することである。帝国主義者の資産、特に彼らの銀行を奪取すること、国内と外国の地主を収奪すること、債務とあらゆる「自由」貿易協定を拒否すること、帝国主義の奴隷制に対する闘争を前進させるいかなる一貫した行動は、大衆をブルジョアジーに対抗させる。トロツキーが述べたように、この階級は、「つねに背後に帝国主義の堅固な後衛をもっている。それはつねに労働者と農民に対して、貨幣、商品、および弾丸をもって彼らを援助する。」(「中国革命と同志スターリンのテーゼ」、1927年5月)。彼は次のように説明した。

「被抑圧、被搾取勤労大衆をけっ起させるすべてのものは、不可避的に民族ブルジョアジーをして、帝国主義者たちとの公然たる同盟におしやるのである。ブルジョアジーと、労働者・農民大衆とのあいだの階級闘争は、帝国主義的抑圧によってよわめられないで、反対に、あらゆる重大な衝突において、流血の内乱にいたるまで尖鋭化するのである。」

同時に、ブルジョアジーが帝国主義者から譲歩を得ようとする限りにおいて、革命家は、完全な組織的・政治的独立を維持する一方で、そうした方策を支持し、プロレタリアートと農民を動員して、自身の目的のため、自身の方法で、これらを実行しようと努める。

国有化?

代償なし!帝国主義者が譲歩するまで、工場、鉱山、鉄道を占拠せよ!

官僚的で制限された土地改革?

土地を奪取する農民委員会を!

帝国主義による「政権交代」の脅威?

労働者と農民の武装を!

どの場合においても、トロツキストは、民族主義のブルジョアジーの支配を打ち破るために、闘争の過程において大衆の独立した行動を提唱する。

ブルジョアジーの影響と戦うためには、民族主義と戦うことが極めて重要である。民族主義は、ブルジョアジーがプロレタリアートと抑圧された人々をその利益の背後に結集するために利用する主要なイデオロギー的手段である。民族主義は、プロレタリアートを、少数民族や他の被抑圧民族の階級的な兄弟姉妹たちに対立させ、決定的には、抑圧民族の労働者階級に対立させる。これは、共通の敵である帝国主義に対する闘争における革命的団結を妨げる。しかし、大衆を民族主義から分裂させるためには、帝国の排外主義の表現である抑圧者の民族主義と、抑圧への反感である被抑圧者の民族主義とを区別することが必要である。この区別を否定することは、大衆の解放願望を否定することである。民族主義は、抽象的な国際主義を説教することによって打ち負かすことはできない。民族主義は、解放のための戦いのなかで民族ブルジョアジーの裏切りを実証することによって、闘争のなかでのみ克服することができる。

プロレタリアートの利益は、あらゆる民族の労働者の完全な連帯を必要とする。帝国主義諸国では、革命諸党は、従属諸国の解放が自身の客観的利益になるという理解をプロレタリアートに染み込ませなければならない。つまり海外での帝国主義者のあらゆる敗北は、自国のプロレタリアートの立場を強化する。トロツキストは、労働運動の隊列内部の社会排外主義者との分裂のために戦わなければならない。この社会排外主義者とは、NATOや欧州連合の擁護者たち、USMCA「自由貿易」協定を支持する北米の労働組合官僚たちである。そしてまた、社会排外主義者との統一を維持する中間主義者との分裂のために闘わなければならない。このようにしてのみ、新植民地における不信と民族主義的偏見を克服することができる。主要な敵は国内にいる!親帝国主義の労働組合官僚を追放せよ!帝国主義の中心地での労働者革命を!

抑圧された国々の革命諸党は、帝国主義の抑圧に対する闘争を指導するなかで、抑圧諸民族のプロレタリアートとの革命的統一の精神で、勤労大衆を教育しなければならない。帝国主義に対する被抑圧諸民族の団結は、欲得ずくの買弁ブルジョアジーの後援のもとでは実現することができない。彼らにとって「愛国心」は自身の私有財産の防衛を意味する。この団結は、農民と同盟した労働者階級の指導部の下でのみ達成できる。すべての帝国主義資産を奪取せよ!耕作者に土地を!民族と社会の解放を!

経験では、例外的な諸状況の下で、農民を基盤としたゲリラ運動が、一つの国で帝国主義を打ち破り、民族ブルジョアジーを収奪できることを示している(例えば、中国、キューバ、ラオス、ベトナム)。しかしながら、こうした運動の勝利は、スターリニスト型の官僚主義体制の樹立しかもたらすことができない。この体制は、労働者大衆への残忍な弾圧を通してその支配を維持している。同時にそうした国は世界市場の圧力にさらされたままである。こうしたスターリニスト官僚制の特質は、帝国主義をなだめるという幻想的な望みのなかで、国境を越えて社会主義革命を拡大することに断固として反対である。こうした革命の獲得物を防衛し拡大するには、これらの官僚に対する新たな革命が必要である。従って、前に説明した革命家の諸任務は、これらの社会にも適用する。つまり、トロツキストは、官僚の手から反帝国主義闘争の指導権を奪い取り、真のレーニン主義の旗の下でこの闘争を指導しなければならない。帝国主義と反革命から中国、北朝鮮、ラオス、キューバ、ベトナムを防衛せよ!スターリニストの裏切り者に対する政治革命を!レーニンとトロツキーの共産主義を!

帝国主義に対する確実な勝利は、帝国主義諸国における「自国」支配階級に対するプロレタリアートの闘争を、まさに同じ帝国主義者とその現地代理人に対する被抑圧諸民族の勤労者の闘争と統合させることによってのみ、保証されうるのである。万国の労働者と被抑圧民族よ、団結せよ!

国際共産主義者同盟による永続革命の修正

誕生した時に歪曲された

その設立以来、新植民地諸国と被抑圧諸民族における革命の問題に対するスパルタシスト・テンデンシーのアプローチは、永続革命の修正に基づいていた。これがどのように、そしてなぜそうなったのかを理解するために、我々のテンデンシーがそのアプローチを練り上げた歴史的、政治的背景を見ることが必要である。

第二次世界大戦後の時期は、ブリテンとフランスの植民地帝国の崩壊、そしてナチス・ドイツに対するソビエト社会主義共和国連邦の勝利後におけるその高まった権威により、民族解放闘争が高揚していた。世界は、ソビエト社会主義共和国連邦と米帝国主義という二つの対抗する社会体制を代表する二つの超大国間で分断された。このような状況の中で、抑圧された国々はうまく立ちまわる余裕を持ち、多くの国々が帝国主義との闘争における軍事的・政治的支援をソ連邦に期待した。1970年代後半まで、反乱は新植民地世界を揺るがした。それは中国、朝鮮、インドシナ、インド、キプロス、アルジェリア、キューバ、アラブ世界、チリなどである。こうした運動の先頭に立っていたのは、ブルジョアや小ブルジョア勢力であった。ほとんどの場合、結果は、ブルジョア民族主義支配下での形式的な独立であり、一方で帝国主義への隷属というくびきは依然としてそのままであった。

この時期を通じて、国際的にほとんど全マルクス主義左翼の戦略は、こうした運動の民族主義指導部やその政権を、公然と又は批判的に支持することから成っていた。その正当化は、植民地や新植民地に対する帝国主義の抑圧が、民族ブルジョアジーに客観的に進歩的な役割を与え、民族主義勢力の勝利が、ブルジョア民主主義革命の実現になり、その結果、社会主義への道が開かれるだろうというものであった。「客観的過程」がブルジョアや小ブルジョアの民族主義指導部を社会主義に向かわせるという主張により、革命家の役割は、彼らを左に押しやることに縮小された。これこそが、スターリニスト政党とその毛沢東主義分派、新左翼と似非トロツキストたちの理論的枠組みだった。(第四インターナショナルの元指導者であるミシェル・パブロは、結局最後にはアルジェリアのベン・ベラのブルジョア政権の顧問に成り果てた。)

これは、民族解放闘争の革命的指導部を完全に否定するものであった。もし「客観的過程」が解放と社会主義をもたらすのであれば、革命諸党の必要性はない。現実には、これこそプロレタリアートと農民大衆を民族ブルジョアジーに結び付け、反帝国主義闘争と社会主義革命を裏切ることを意味していた。革命家にとって、提起されたのは、反帝国主義闘争を前進させる手段として、勤労大衆の欲求と願望のための独立した行動の綱領を提供し、その過程で、民族主義者やスターリンニストに対抗して、勤労大衆の先頭に立って登場することであった。これに基づいてのみ、帝国主義に対する勝利の障害物として左翼の階級協調主義を暴露し、真のトロツキスト潮流を打ち建てるための分裂と合同の過程を開始ることが可能であった。

しかしながら、スパルタシスト・テンデンシーはこうした道を進まなかった。民族解放闘争のブルジョア指導部と左翼による民族主義への追随に直面して、我々は、新植民地世界の民族主義を徹頭徹尾反動的であると非難することによって、硬直したセクト主義的な路線を取った。左翼の解党主義に反対する正しい衝動から出発し、我々は、新植民地世界の革命戦略の中心に民族解放闘争を据えるという永続革命の核心の否定へと、犯罪的にたどり着いた。永続革命を要約する正統的な言い回しは別にして、我々は、民族解放を階級闘争と社会主義革命に対置した。そうすることで、民族解放闘争の共産主義指導部のための戦いを体系的に拒否し、民族主義者と小ブルジョア勢力による大衆への支配力を強化した。この一般的な枠組みは、根本的に、帝国主義への屈服となった。

民族解放:悩みの種かそれとも革命の梃子か?

ここに、民族問題に対するスパルタシスト・テンデンシーの見解の二つの典型的な例がある。

「一般的に自決権への我々の支持は、否定的である。つまり労働者階級の団結のための手段として、民族抑圧のあらゆる現れに非妥協的に反対であって、民族の『自明の運命』とか『遺産』の実現としてではなく、『進歩的な』民族とか民族主義への支持としてでもない。我々は、自決権と民族解放闘争を支持する。それは民族問題を歴史的議題から取り除くためであって、別のそうした問題を創り出すためではない。」

—「アイルランドに関するテーゼ」、『Spartacist』(英語版)24号、1977年秋

そして、

「多民族国家内の被抑圧諸民族において、独立を主張するかどうかの問題は、異なる民族の勤労者間の民族対立の深さによって決まる。もし単一の国家権力内で真の階級的団結を不可能にするほど諸関係が毒されているなら、我々は、民族問題を議題から取り除き、階級問題を前面にもたらす唯一の方法として、独立を支持する。」

—「ケベック民族主義と階級闘争」、『Spartacist Canada』12号、1977年1月

民族問題に対するこのアプローチは、民族問題を社会主義革命の梃子としてではなく、悩みの種として、つまり「純粋な」階級闘争への道を掃き清めるため取り除く必要のあるイライラさせる問題として見なすことに基づいていた。これはマルクス主義とは何の関係もない。革命家のアプローチは、ブルジョアジーを打倒する闘争において、労働者階級の団結を鍛え打ち固めるために、あらゆる抑圧、あらゆる危機、あらゆる抵抗行為を利用することにある。この点で、被抑圧諸国における外国支配への抵抗は、世界帝国主義を打ち砕く強力なハンマーになる。しかし、スパルタシスト・テンデンシーは、実際に起こっている社会的・民族的闘争に基づいて社会主義の闘争を進める代わりに、セクト的・空論的なやり方で、どんな民族的「不都合」をも排除した独自の理想化した階級闘争のバージョンを、生きた現実に投影しようとしたのである。

生涯にわたって、レーニンはこのようなアプローチと戦い,特に、1916年におけるダブリンのイースター蜂起を軽蔑の目で見なし、単なる「盲動」だと片付けたいわゆる社会主義者たちに反対した。レーニンは、「自決にかんする討論の総括」(1916年7月)のなかに、アイルランドの反乱に関する一節を含めた(我々は、その全内容が我々に向けられたものであることに気付かず、この一節を転載した)。彼は次のように説明した。

「自決に反対する論者の見解からは、帝国主義に抑圧されている小民族の生活力はすでに渇れており、彼らは帝国主義に反対してなんの役割もはたすことができず、彼らの純民族的な志向を支持してもなんにもならない、等々の結論が出てくる。」

我々が自決権を拒否しなかった一方で、我々の全アプローチは、「民族問題」から何も良いものは出てこないだろうという考えによって形付けられた。レーニンは次のように続けて言う。

このような蜂起を盲動と名づける人は、最悪の反動家か、さもなければ、社会革命を生きた現象として考える能力をまったくもたない空論家である。

「というのは、植民地およびヨーロッパにおける小民族の蜂起を伴わず、その偏見をすべてもったままの小ブルジョアジーの一部の革命的爆発を伴わず、また地主的、教会的、君主制的、民族的、等々の抑圧にたいする無自覚のプロレタリアならびに半プロレタリア大衆の運動を伴わないような社会革命が可能だと考えるのは、社会革命を放棄することを意味するからである。きっと、一つの部隊がある場所に整列して、『われわれは社会主義に賛成だ』と言い、他の一部隊が他のある場所に整列して、『われわれは帝国主義に賛成だ』と言えば、それが社会革命だというのであろう!アイルランドの蜂起を『盲動』と罵倒するのは、ただこういう衒学的でこっけいな見地からだけ可能なことであった。

「『純粋の』社会革命を待ちもうけている人は、いくら待ってもけっして革命にめぐりあえないだろう。そういう人は、真の革命を理解しない、口さきだけの革命家である。」

民族問題を「歴史的議題」から「取り除く」という方法は、被抑圧人民の民族感情によって「汚染されていない」「純粋の」革命を期待する以外の何ものでもない。

社会主義革命は、単一の戦闘ではなく、多数の民主的、経済的、社会的諸問題をめぐって起こる一連の戦闘である。外国支配のくびきの下にある国々において、社会主義の闘争の前提条件として民族問題を「除去」しようとすることは、帝国主義が強制した低開発という状態が、社会主義革命の根本的な梃子として、客観的に民主的諸任務を前面に押し出すことを否定することを意味する。永続革命の核心、そして1917年の十月革命の中心的な教訓は、農民とすべての被抑圧者の先頭に立った革命的プロレタリアートによって達成され、社会主義革命へと成長転化したブルジョア民主主義革命として要約される。トロツキーは次のように説明した。

「民主主義革命の指導者として権力に上りつめたプロレタリアートの独裁は、不可避的に、しかもきわめて急速に、ブルジョア的所有権の深刻な侵害と結びついた諸課題に直面する。民主主義革命は直接に社会主義革命に成長転化し、それによって永続革命となる。」

—『永続革命論』

これとは対照的に、我々の全アプローチは、いかにしてこれやあれやの民主主義的問題を議題から「取り除く」ことができるかを思案することだった。しかし、このことは、北アイルランドやイスラエル/パレスチナのように、相互に浸透した諸民族が居住する地域でそうするには、より複雑であることが判明した。その北アイルランドやイスラエル/パレスチナでは、二つの民族集団が同じ領土をめぐって自決の主張を競い合っている。スパルタシスト・テンデンシーは、それ故に、相互に浸透した諸民族の場合のための「理論」を創り上げた。イスラエル/パレスチナの問題に関する我々の基礎的な記事は、前提をつけて次のように主張している。

「パレスチナのように、諸民族が地理的に相互に浸透している場合、独立した民族国家は、強制的な分離(強制的な人口移動など)によってのみ創造されうる。従って、民主的な自決権は抽象的なものになる。この強制分離は、より強い民族集団がより弱い民族集団を追い出すか、破壊することによってのみ行使されうる。

「こうした場合には、民主的な解決の唯一の可能性は社会転化にある。」

—「シオニスト国家の誕生、その2:1948年の戦争」『Workers Vanguard』45号、1974年5月24日

ベルファストやガザのような場所では、民族問題を議題から「取り除く」ことは明らかに不可能であった。こうして我々は、革命の必要性を宣言した。しかし、問題全体は依然として残っている。つまり、どのようにそこで革命を起こすことができるのか?相互に浸透した諸民族の「理論」の背後にある綱領全体は、社会主義革命の必要性を公言し、その一方でパレスチナ人とアイルランドのカトリック教徒の民族解放闘争を我々の革命戦略の中心に据える必要性を拒否することから成っていた。その代わりに、社会主義革命は、両民族集団が、経済的要求とリベラルな連帯に基づき団結するため、民族感情を捨て去る過程と見なされている。

民族解放闘争が革命の悩みの種であり、社会主義に向け戦うために無視しなければならないと考えるいかなる「マルクス主義者」も、せいぜい取るに足りないか、最悪の場合、被抑圧者が団結の前提として民族的願望を放棄することを要求する支配的抑圧者の代理人である。イスラエル/パレスチナや北アイルランドで革命が起こる唯一の道は、パレスチナ人とアイルランドのカトリック教徒による民族解放のための蜂起を通じてである。このような蜂起は、プロテスタントやイスラエル人の民族的権利を侵害するのではなく、労働者を支配階級とその帝国主義の後ろ盾から解放しないといけないのである。アイルランドとパレスチナの民族主義者がそうした展望を持つことができず、またそれに反対しているからこそ、共産主義の指導部だけが、当地での民族問題に公正で民主的な解決をもたらすことができる。

全く無能な兆候として、民族問題に関する我々の見解を念入りに述べた重要な文書である「アイルランドに関するテーゼ」は、最初のテーゼで次のように述べている。

「アイルランドの状況への公正で民主的な社会主義的解決は、他の場所でのプロレタリア革命の影響下でのみもたらされ、具体的には、島のコミュニティのどちらか、あるいは双方のかなりの部分の反対に抗して、赤軍の銃剣で実行されるかもしれないという強い可能性が依然として残っている。」

パレスチナに関して、我々の記事は、隣国での革命が起こるまでは、革命は十中八九不可能であると絶えず強調した。北アイルランドやパレスチナにおける土着の革命の可能性を実際に信じないと、そしてこうした地域で我々の介入が不可欠で決定的な役割を果たすと見なさないと、あらかじめ宣言することは、次のような旗を掲げることを意味する。すなわち「我々は破産した」という旗を掲げることを意味する。

共産主義者の任務は、民族解放の闘争と社会主義の闘争に対置するのではなく、両者を結合させることである。そうした展望は、民族問題に対するスパルタシスト・テンデンシーのアプローチを特徴付けた硬直さと偏狭さではあり得ない。つまり、それには永続革命の方法と綱領が必要である。永続革命の適用は、農民がいる国々とか資本主義の発展が遅れている国々とかに限定されるものではない。その方法は、現代の共産主義綱領の正に核をなす部分にある。マルクスとエンゲルスがヨーロッパでの1848年の革命から引き出した中心的な教訓は、民主主義的・社会的な闘争のためのプロレタリア指導部の必要性だった。マルクスとエンゲルスは、1850年3月の「中央委員会の[共産主義者]同盟への呼びかけ」を終えるにあたり、次のように強調した。

労働者は「最後の勝利を得るためには、彼ら自身がいちばんに努力しなければならない。すなわち、自分の階級利益を明らかに理解し、できるだけはやく独自的な党的立場を占め、一瞬間といえども民主主義的小ブルジョアの偽善的な空文句にまよわされずに、プロレタリアートの党の独立の組織化をすすめなければならない。彼らの戦いの鬨の声はこうでなければならない―永続革命、と。」

民族主義に関するレーニン主義対国際共産主義者同盟:永続革命対リベラルの激怒

世界のほとんどの国々にとって革命の中心的な問題は、民族的分裂の克服である。この問題は、発展が遅れた国々では特に複雑である。そこでは、支配的な民族(またはエスニック的、宗教的な集団)が、帝国主義に抑圧されている一方で、少数民族の抑圧者でもある。これは、少し例を挙げると、インド、イラン、テュルキエの場合である。近東に関する記事から引用した次の文章は、この問題に対する我々のアプローチのよい例である。

「パレスチナのアラブ人は、被抑圧者が抑圧者となった民族主義の犠牲者であることを忘れてはならない。ブルンジでは、支配的マイノリティのツチに対するフツ族のクーデターが成功していたならば、被抑圧者の部族主義が抑圧者の大虐殺の民族主義に転化していただろう。すべての民族主義は反動的である。なぜなら成功した民族主義は大虐殺に等しいからである。」

—「近東における残忍な民族主義とスターリニストの裏切り」、『Workers Vanguard』12号、1972年10月

これは、抑圧された国々における支配的民族の民族主義にあるどんな矛盾も消し去っている。1994年のルワンダにおけるツチ族の大虐殺は、フツ族の民族主義の現実である。しかし、フツ民族主義は、米国やフランスの民族主義とは根本的に同じではない。それは、ベルギー、それからフランス、そして現在の米国の帝国主義によるこの地域の強奪の産物である。それは、一つには、この現実に対する反動的な返答である。フツ族対ツチ族の衝突は、この理解を抜きにして、適切に取り組むことも解決することもできない

この同じアプローチは、1979年のイラン革命に関する我々の活動の基礎になっていた。この中で、我々は、イラン国王に対するムラー主導の反対派を、ヒトラーやクー・クラックス・クランと同等に扱った!

「組織化されたプロレタリアートや左翼を含め、イラン社会の王政に対する全反対勢力は、ホメイニの背後に結集していた。しかし、ホメイニの運動の中核は、ムラー(18万人にのぼるシーア派イスラム聖職者)とバザーリスであった。バザーリスとは、国の近代化によって打ちひしがれつつある伝統的な商人階級であった。この伝統的な社会階級は、経済的進歩によって破滅的な運命にあり、それ故当然ながら、反動的なイデオロギーとその政治的表現に陥りやすい。

「日和見主義者にとっては、反動的な体制に対して反動的な大衆動員がありうることなど考えられない。しかし、歴史は反動的な大衆運動の例を提供している。アドルフ・ヒトラーは間違いなく大衆運動を組織し、ワイマール共和国を打倒した。1920年代の米国では、クー・クラックス・クランは、何万人もの活動家を街頭に動員できるダイナミックに成長する組織だった。」

—「イランと左翼:なぜ彼らはイスラムの反動を支持したのか」、『Workers Vanguard』229号、1979年4月13日

ムラーは反動的である。すなわち、イランのイスラム体制は、反女性で、反スンニ派であり、さらにイラン国境内のすべての非ペルシャ諸民族の民族的権利に反対している。しかし、ムラーは、パフラヴィー王政が助長したイランの帝国主義的略奪に対する反動的な返答だった。この現実を認識することなしに、ムラーの大衆をひきつける力を切り崩すことは不可能であった。我々のプロパガンダの意味あいは、1979年の動乱の参加者の間に介入し、イスラム主義の指導者に幻想を抱いている人々に、彼らがヒトラー風の運動に参加していると主張することだった!

我々の全枠組みは、帝国主義の締め付けから自身を解放するためのペルシャ大衆の闘争が、進歩的なものであるという事実を否定した。我々の任務は、それがムラーの支配下にある限り、必然的に民族や他のマイノリティに対して向けられ、彼らへの迫害をもたらし、同時にペルシャ人という多数者の解放自身を掘り崩すことになると説明することだった。ムラーの支配を打ち破る唯一の方法は、彼らの指導が、国王と帝国主義からの解放を目指す大衆の正当で進歩的な願望に対して、いかに障害物であるかを具体的に示すことであった。

エンゲルスの次の文章は、ドイツによるポーランドの抑圧を述べたものだが、例えばイランのように、抑圧され同時に抑圧者でもある国々にも十分に当てはまる。

「というのは、われわれドイツの民主主義者は、ポーランドの解放に特別な利害関係をもっているからである。ポーランド分割によって利益を得たものはドイツの諸侯であったし、今日なおガリツィアとポーゼンを制圧しているのはドイツの軍隊である。われわれドイツ人、とくにわれわれドイツの民主主義者にとっては、われわれの国民からこの汚点をぬぐいさることは、重大な問題である。一民族は他民族を圧迫しつづけながら同時に自由になることはできない。したがってドイツ人の圧迫からポーランドを解放することが成就しなければ、ドイツの解放は成就されない。そして、そのゆえにポーランドとドイツは共通の利害をもっており、そのゆえにまたポーランドの民主主義者とドイツの民主主義者は、両国民の解放に協力協働することができるのである。」[強調追加]

—「ポーランドについて」(1847年11月)

イランとかインドのような国々では、こうした国家内の少数諸民族や人民が支配民族による抑圧を受け続ける限り、帝国主義の従属からの解放は実現しない。後者は、抑圧されたマイノリティの解放に「特別な利害関係」を持っており、彼らの最も一貫した擁護者にならなければならない。というのは、これを抜きにして、彼ら自身の解放は一歩も前進しえないからである。なぜか?帝国主義こそ、大衆の極貧状態に責任を負っているからであり、帝国主義こそ、無数の分割を企て、民族と人民を恣意的な国境内に押し込めていたからである。勤労者は、帝国主義そのものに反対して団結しなければならないのである。帝国主義の制裁により窒息させられた国で苦役するペルシャの労働者と農民にとって、クルド人、バローチ人、アゼリ人の兄弟姉妹の解放を、彼ら自身の解放のための戦いの一部として擁護することは、彼らの客観的な利益である。これには、彼らの自決権、つまり分離の権利を支持することが含まれる。

支配的な民族(例えば、チュルキエのトルコ人やイランのペルシャ人)の革命家たちが、それぞれの国で抑圧された民族の民族的権利を積極的に擁護すればするほど、帝国主義者による分割統治の策略を放棄させることができる。そうなれば、シリアのクルド人の場合のように、被抑圧民族を帝国主義の手先にしようとする米国の動きを、台無しにするだろう。

上記のアプローチは、我々の展望とは完全に反していた。そしてその我々の展望は帝国主義の抑圧が民族主義の刺激となるという事実を消し去った。例えば、スリランカに関する我々の活動の中で、我々は、スリランカ自由党のバンダラナイケ政権が取ったあらゆる方策が、反ターミル排外主義とか微々たることに突き動かされていたと主張しはねつけた。さらに我々は、こうした方策には、帝国主義に対する国家主権の主張が含まれていることを否定した。中国官僚によるバンダラナイケ政権への支持に対する論争の中で、我々は次のように書いた。

「中国は、スリランカ共和国の宣言を、それ自身シンハラ排外主義に露骨でデマゴギックに訴えたものだが、『帝国主義に対抗し民族の独立を守る長びく闘争において、スリランカ人民によって勝ち取られた意義ある勝利』とまで評することにした。」[強調追加]

—「セイロンにおける『反帝国主義統一戦線』」『Young Spartacus』19号、1973年9月-10月

バンダラナイケ政権が反ターミル排外主義をかき立てたことは、疑いの余地がない。しかし、この正しい認識から、我々は、シンハラ民族主義が、それ自身の血なまぐさい反動的なやり方で、この島のブリテン支配に対する回答だったことを否定することにより、シンハラ民族主義との闘争を進めた。この結果、我々は、スリランカがブリテン王政との関係を断ち切った、まさにスリランカ共和国宣言を一顧だにしなかったのだ!

スリランカの場合、帝国主義への反対から始めないターミル人のいかなる防衛も、リベラルな帝国主義の見解を反映することになる。これは帝国主義者がどこでも利用する戦略である。つまり、彼らの利益を促進するためマイノリティの窮状を利用し、全状況が彼らの支配のために存在するという事実を隠蔽するということである。スリランカも何ら変わりがない。我々の以前の展望では、革命党になろうとする小さな核は、支配民族の労働者を獲得するための糸口を見つけることさえできず、彼らに対する民族主義者の支配を強化するだけである。そして、抑圧されたターミル人に訴えかける限り、彼らの利益にはならないだろう。なぜなら、民族対立を克服したり、ターミル人とシンハラ人双方の抑圧者である帝国主義に対する共通の闘争を進めたりするのには、助けにならないだろうからである。言い換えれば、それは、実際に、ターミル人向けのリベラルな帝国主義の綱領(彼らの抑圧に対する非難の声)であり、シンハラ人向けのリベラルな帝国主義の綱領(ターミル人をより良く扱え!)であった。

抑圧された国々では、マイノリティに課された支配民族の排外主義は、ある程度まで、帝国主義の略奪に直面した衰弱の結果である。帝国主義に対する戦いが抑えられればされるほど、支配民族は、民族、宗教、その他を問わず、国内のマイノリティに敵対する。根本的には、これは帝国主義の抑圧下にある国々の現実のためである。つまり、もし物質的発展が帝国主義者を犠牲にして起こらないのであれば、新植民地内の労働者や抑圧されたマイノリティを犠牲にして起こらざるをえない。民族ブルジョアジーは、民族的・宗教的感情を利用することにより、国内を分断したまま、悲惨な状況と低開発に対する怒りをそらすことができる。反対に、抑圧された国の内部で、諸民族が共通の抑圧者である帝国主義に対し強く反対すればするほど、彼らの間の団結は益々緊密になり、支配的な集団の排外主義は益々弱まる。

主要な敵は帝国主義である

スパルタシスト・テンデンシーは、新植民地や被抑圧諸民族では、労働者や被抑圧者の主要な敵は民族ブルジョアジーであると主張することによって、ブルジョア民族主義と闘おうとした。直接米帝国主義の抑圧下にあり、その内的生活があらゆる面でこの抑圧に規定されているメキシコに関して、我々は次のように書いた。「我々スパルタシストは、メキシコにおいて、主要な敵は国内にいると主張する。それは、帝国主義の従僕であるメキシコのブルジョアジーである」(「メキシコ:NAFTAの実行者は労働者を標的にする」、『Workers Vanguard』748号、2000年12月15日)。「オレンジ対グリーンではなく、階級対階級!」というばかな見出しが付いた北アイルランドに関する記事(『Workers Vanguard』7号、1972年4月)では、次のように説いた。

「全資本家は、あらゆる場所で全労働者の敵である。しかし、ある国の労働者の主要な戦いは、いつも自国ブルジョアジーに対抗するものでなければならない。こうすることでのみ、彼らは、海外の階級兄弟たちに、他の国の労働者に対して、階級闘争の言い回しで自らの立場を隠し、彼らが資本家と共に立つわけではないことを示し、自分たちの国際主義という真剣な約束を与えるのである。」

「階級的独立」を出発点と見なしながら、この俗物的な議論は、新植民地国では、主要な敵は帝国主義であり、脆弱な民族ブルジョアジーではないことを否定する。我々自身が記したように、民族ブルジョアジーはただの従僕の役割を持っている。民族主義者やさまざまな左翼グループは、民族ブルジョアジーへの支持を正当化するため、この真実を利用する。しかし、民族主義者がプラスを付けるところにマイナスを付けることは、大衆を民族主義から分裂させる闘いを前進させはしない。それどころか、こうしたアプローチは、労働者や農民の目から見れば、共産主義者の信用を失墜させるだけであり、さらに外国支配に対する大衆の民族的願望の唯一の代表者として、民族主義者を押し上げるだけである。それは単に帝国主義に屈服するだけである。

ここ数十年間、国際共産主義者同盟は、メキシコにたいし「主要な敵は国内にいる」という呼びかけの使用を控えていた。同志ジム・ロバートソンは、2000年代初頭に、米国の手によるメキシコの露骨な略奪を考えれば、そうした呼びかけを掲げるのを止めるべきだと主張した。しかしながら、このスローガンの内容は、依然としてメキシコでの我々の活動の指針であった。例えば、この介入の直後、同志エド・C。は、メキシコにおける我々の任務が、「帝国主義の支配に反対する闘争において民族を指導すること」にあると主張した。彼は、我々の米国支部の指導部による動議で、強く非難された。

「メキシコに関して、革命的、国際主義的、プロレタリ的な展望によって導かれず、代わりに「帝国主義支配に反対する闘争で民族を指導する」のを主要な任務として受け入れる労働者党は、プロレタリアの綱領を実行することから尻込みする党であろう。つまりそうした党は少なくとも実質的にメンシェビキであろう。こうした党が階級的独立を維持する理由はないだろう。」

これは、永続革命の完全な否定であるだけでなく、実際には、帝国主義と闘うという名目で、プロレタリアートをブルジョアジーとの同盟に従属させるスターリン主義の逆バージョンである。上述した動議は、階級的独立の名目で、帝国主義に対する闘争を完全に放棄している。それがスターリン主義であろうと、スパルタシスト同盟/米国の政治局であろうと、結果は同じである。つまり、帝国主義との闘争は、ブルジョア民族主義者の手中にある。この大会では、「帝国主義支配に反対する闘争で民族を指導すること」は、新植民地における共産主義者の任務だということを確認する。

被抑圧民族の民族発展は歴史的に進歩的である

17世紀から19世紀の間、ヨーロッパにおける民族国家の発展は、封建的構造を一掃し、資本主義を打ち固める上で進歩的な役割を果たした。しかし、帝国主義の時代には、資本は民族国家の境界を越え出ている。帝国主義は、新たな歴史的基盤の上で、民族抑圧を拡大し深化させることを意味する。したがって、帝国主義列強における民族運動の進歩的特質が過去のものである一方で、被抑圧民族においては、民族国家の発展と強化と同様に民族運動は、それが帝国主義の征服に反対する限り、依然として進歩的な歴史的役割を演ずる。

この基本的なマルクス主義の真実に反して、スパルタシスト・テンデンシーは、民族の強化と統一は、今やあらゆるところで反動的だと主張した。これは、我々の南アフリカ支部の政治的支柱の一つであり、その創立文書の一つである『南アフリカ左翼への論争』の中心点の一つであった。黒人民族主義者に対する論争のなかで、我々は、民族統一が17世紀から19世紀のヨーロッパでは進歩的な発展だったとする一方で、次のように主張した。

「しかしながら、今日のアフリカやアジアでは、帝国主義に依存し束縛された脆弱な土着のブルジョアジーは、こうした新植民地諸国家を近代的な産業社会に転化させることができない。それ故に「国造り」は、支配的な民族による民族的・エスニック的集団の抑圧と同じ意味になる。」

-「新たな統一運動への手紙」(1994年2月28日)

南アフリカは、帝国主義によって残忍に抑圧されている国である。そこでは、白人資本家のちっぽけな集団が、強制的にバンツースタンに分断された黒人大衆を支配している。このバンツースタンは、黒人のアフリカ人をその民族性に基づいて隔離するため、アパルトヘイト支配者が設けた地域である。アフリカ大陸の他の地域と同様に、南アフリカの国境は、植民地抑圧者により人為的に引かれたものである。その上で、この抑圧者たちは、超搾取された黒人労働者を支配するために、厳格な隔離制度を設けた。強制された分断に対して、国造りと団結を求める黒人のアフリカ諸民族の願望に反対することは、ただ反動的だった。その立場は、我々が実際に「支配的な民族」、つまり帝国主義者に支持された南アフリカの白人支配階級と手を組むことである。南アフリカで革命党を鍛え打ち固めるのに重要なことは、まさに帝国主義の抑圧に対して、国造り闘争の共産主義指導部のための闘いである。そして、その闘いの中で、黒人民族主義者がいかにこの道の障害物であるかを暴露することである。

メキシコでは、カルデナスとポピュリズムへの幻想に対抗するため、国際共産主義者同盟の支部であるメキシコ・エスパルタキスタ・グループ(GEM)は、単にカルデナスを非難することに頼っていた。我々は彼を攻撃した。「彼の意図は、メキシコ・ブルジョアジーの利益のために国を近代化すること」だったのだからであり、彼の歴史的遺産は、「メキシコ・ブルジョア体制の強化」であったのだからである(「メキシコ:NAFTAの実行者は労働者を標的にする」)。ブルジョア支配下であってさえ、帝国主義の従属に対抗するメキシコの民族的発展は、実際には非常に進歩的である。これを否定することの破綻は、実際、我々自身の記事から自明である。我々は次のように書いた。

「カルデナスが権力を握る二カ月前に憲法で制度化された有名な『社会主義教育』は、貧しい人々や労働者を、より賃労働に適したものにし、ブルジョアジーにとってより生産的にするため、教育レベルを引き上げるという目的以外になかった。」

何百万人もの労働者や農民が、この改革のおかげで読み書きを学んだ。我々が、この改革は労働者や農民を「賃労働に適した」ものにするための策略に過ぎない、と指摘したからといって、彼らがカルデナスへの幻想を捨てるだろうという考えは、ただグロテスクなだけである。我々が非難できなかったカルデナス下の唯一の改革は、石油と鉄道の国有化であった。なぜならトロツキーがこの改革を歓迎したからである。我々はまた、メキシコ革命が単なる反動の乱痴気騒ぎであり、メキシコのスペインからの独立でさえ「反革命の独特のにおいがした」と主張した(この問題に関して、2023年5月発行の『El Antiimperialista』1号に詳細に述べているGEMの大会動議を参照)。

マルクス主義者は、征服された民族の民族的発展を支持し、そのために闘う。これには、帝国主義に対して向けられる限り、民族統一の強化が含まれる。ブルジョアジーが反動階級であるという口実の下で、被抑圧国の民族的発展の進歩的性質を否定することは、単に帝国主義への屈服である。民族主義者に反対するため、共産主義者は、完全な階級的独立を維持しながら、被抑圧諸国の主権と発展を前進させる進歩的方策を支持しなければならず、それを前に進めるため大衆を独自に動員しようとしなければならない。労働者と農民の蜂起は、カルデナスや今日のロペス・オブラドールのような民族主義者が実際には新植民地解放の敵であり、大衆の願望が反帝国主義闘争の共産主義指導部を強く求めているのを必ず明白に示すものである。

トロツキストは民主主義の最良の闘士である

社会主義のための闘争を民主主義のための闘争に対置する最も顕著な例の一つは、我々のテンデンシーが2011年に採択した路線である。それは、いかなる状況下でも誤りとして、憲法制定議会の要求を拒否するというものだった。(「なぜ我々は『憲法制定議会』の要求を拒否するのか」、『Spartacist』[英語版]63号、2012-13年冬を参照)。この立場は、「アラブの春」のすぐ後で採択された。この「アラブの春」が起こったとき、何百万もの人々が数十年にわたる独裁支配に対して抵抗し、多数の左翼グループは、日和見主義的根拠に基づき、憲法制定議会の招集を要求した。硬直したセクト主義のやり方で、アラブ大衆に向けた我々の展望の欠如を埋め合わせるために、我々は憲法制定議会の要求を全面的に非難し、そしてそれに社会主義革命を対置することに訴えた。

この路線の根本的な修正主義を理解するためには、憲法制定議会の要求とは何かを理解することが必要である。それは、新たな憲法を制定する目的の機関のための要求である。我々の記事が言及しているように、それはフランス革命にさかのぼる。フランス革命の際には、国民議会が中心的な民主主義の諸任務を解決した。この任務は、王制の廃止、封建制度の廃止、土地の再分配、男性の選挙権の拡大である。したがって、それは民主主義の要求である。近東、アフリカ、ラテンアメリカの広大な地域など、形式上の民主主義のない資本主義発展の遅れた国々では、大衆は権利を奪われ、長期に及ぶ独裁の支配またボナパルティスト支配に苦しむ国々では、この要求は何百万もの人々を活気づける。

にもかかわらず、我々は、この議論を利用しながら、その要求を退けた。

「民族自決、女性の平等、耕作者に土地、普通選挙権、君主制への反対といった諸要求は、そのどれもまたすべてが、プロレタリアートの闘争の背後に大衆を結集するのに、決定的なものになることができる。こうした諸要求とは異なり、憲法制定議会は、民主的な要求ではなく、新たな資本主義政府のための要求である。先進資本主義国家と同様に、半植民地世界においても、ブルジョアジーの反動的な性格を考えると、革命的なブルジョア議会はありえない。したがって、憲法制定議会の要求は永続革命の展望に反している。」 [強調追加]

これは一種のブルジョア合理主義である。ブルジョアジーが世界史の観点で反動階級であるという正しい前提から、我々は憲法制定議会が常に反革命的性格を有すると推測した。正にブルジョアジーが反動的性格だからこそ、共産主義者が、大衆の民主的な願望を実現するために、その戦いで先導的な役割を担う義務があるのである。大衆がブルジョア議会主義を頼みにし、彼らの願望を前進させる可能性を憲法制定議会に見出す限り、革命家の義務は、この戦いに加わり、民主主義のための最も一貫した闘士として自身の地歩を固めることである。同時に、彼らは大衆にブルジョア議会主義の破産を暴露し、ソビエト支配の必要性を説く。憲法制定議会の要求を拒否することは、民主主義革命をブルジョアジーの手に委ねることであり、そのなかでブルジョアジーは、大衆の民主的感情を利用して、大衆を自身の階級的利益に従属させるだろう。第四インターナショナルの綱領である1938年の過渡的綱領は、次のように説明している。

「民主主義的綱領を、ただ頭から排撃することはできない。闘争のなかで、大衆がそれ以上に成長して、それから脱けだすことが、絶対に必要である。中国やインドのような国には、国民議会(憲法制定会議)のためのスローガンは、完全な力をもっている。このスローガンは、民族解放と農業改革の問題と、不可分にむすびつけなければならぬ。まず第一歩として、労働者は、この民主主義的綱領をもって武装されなければならぬ。ただ労働者だけが、農民を振るいおこし、統一することができるだろう。革命的民主主義的綱領を基礎にして、労働者を『民族』ブルジョアジーに対立させることが必要である。そうすれば、革命的民主主義のスローガンのもとでの、大衆の動員のある段階において、ソヴィエトがおこりうるし、またおこらねばならぬ。」

しかし、スパルタシストは直接ソビエトに進みたかった。我々は、その過程で、労働者と農民を団結させ、民族ブルジョアジーに対立させる必要性を忘れた!

我々が憲法制定議会の要求を拒否することに対する最も強い論拠は、1917年の十月革命その のである。我々の主張の論理は、ボルシェビキが「新しい資本主義政府」の樹立を要求したにもかかわらず、歴史上初めて成功裏に労働者革命を導いたことを意味する。我々は、ソビエト権力樹立のに、ボリシェヴィキが憲法制定議会を解散したことを、憲法制定議会を要求すべきではなかったという「証拠」として利用した。実際、憲法制定議会の要求は、ボルシェビキによる権力獲得において中心的な役割を果たした。彼らは、農民を動員して、臨時政府を暴露するために、この要求を利用した。この臨時政府は、常に憲法制定会議の招集を延期しようとしていた。1917年12月にレーニンが書いた「憲法制定議会についてのテーゼ」の第一項を引用することで十分である。

「憲法制定議会招集の要求が、革命的社会民主主義派の綱領のうちにはいっていたのは、まったく正当であった。なぜなら、ブルジョア共和国では、憲法制定議会は、民主主義の最高形態だからであり、またケレンスキーをかしらとする帝国主義的共和国は、議会を創設するにあたって、民主主義にたいする一連の違反によって、選挙の偽造を準備していたからである。」

形式主義者だけが、憲法制定議会の要求とソビエトがいつでもどこでも相容れないものと見なすことが可能なのだろう。むしろ、憲法制定議会の要求は、大衆をソビエト権力の展望に勝ち取るために、大衆とその裏切りの指導者との間に打ち込む必要がある楔なのである。ボルシェビキは、ソビエト権力が樹立された後にのみ、すなわち、大衆が闘争のなかで民主的綱領をのり越え、憲法制定議会が反革命の道具となってしまった時にのみ、この議会を解散したのである。

中国の経験と憲法制定議会の要求に関する『スパルタシスト』の記事の中心的な主張は、様々な程度の誹謗中傷の寄せ集めである。我々は次のように主張する。1928年と1932年の間に書かれたトロツキーの著作、すなわち、彼が再び憲法制定議会のスローガンを掲げたときの著作には、「混乱と矛盾」がある。我々は、彼がこのスローガンを「見当外れにも」掲げ、「憶測」に従事し、「ブルジョアジーとその改良主義の代理人たちが、反乱したプロレタリアートに対する道具として、選出された議会を巧みに使った多くの歴史的事例を無視した」と書いた。トロツキーは、1925-27年の革命の敗北後に、スターリンとコミンテルンのセクト主義路線に反対して、中国でこの要求を掲げた。この要求は、国民党による反革命的な軍事独裁の時期に、労働者大衆の間に中国共産党の権威を再度確立する極めて重要な手段であった。トロツキーは「混乱」していたのではない。この問題に関する彼の著作は、極めて明瞭である。実際、我々の路線は、この要求を日和見主義と呼び、それを掲げるのを拒否した1928年のスターリン下のコミンテルンをおうむ返しに言ったものである。

この大会は、憲法制定議会の要求が原則的だと再度断言する。もちろん、多くの改良主義者たちは、この要求を悪用し、ブルジョア民主主義に幻想を作り上げるのに利用する。この要求だけでは革命的ではない。この要求を掲げるには、革命的綱領に結び付けられていなければならない。この綱領は、大衆を団結させブルジョアジーに対置する仕方で、民族解放と農民問題に取り組むものである。

民族問題とスターリニストの抑圧

帝国主義者が、さまざまな資本主義復活勢力を煽動するため、モスクワ官僚による非ロシア諸民族の抑圧に付け込むなかで、スパルタシスト・テンデンシーには、ソ連圏における資本主義反革命との戦いで、民族問題が突き付けられた。国際共産主義者同盟は、堕落しそして歪曲した労働者諸国家を無条件に防衛することで際立っていた。しかしながら、国際共産主義者同盟自身の綱領は、プロレタリア政治革命の原動力としての民族抑圧に対する戦いを否定することで、この戦いを弱体化させた。そしてこの武器を、帝国主義者とその現地代理人に手渡したのである。その最も早く最も明瞭な例は、ポーランドにおける反革命の連帯運動に対する1980年代の戦いであった。この連帯運動は、クレムリンの支配下で大衆が深く感じ取った民族抑圧に主に基づき、台頭し、労働者階級のなかで支持を打ち固めた。

ポーランドは、第二次世界大戦後、ソ連軍が進駐しブルジョアジーの収奪を通して上から労働者国家を創設する前に、何世紀にもわたり民族抑圧に苦しんでいた。その社会的転覆は、ポーランドとソ連の労働者の大きな勝利であり、帝国主義と反革命から無条件に防衛する必要があった。しかしながら、東ドイツや東欧全土におけると同様に、ポーランドの労働者国家は、ロシアのスターリニスト官僚の支配下で、官僚主義的に歪曲されて誕生した。そのスターリニスト官僚は、新たな社会的諸条件の下で、ポーランドの民族抑圧を継続した。その理由は、「一国社会主義」というスターリニストの綱領の核心に触れる。一国での、あるいは数カ国におけるプロレタリア革命は、真の民族平等と諸民族の同化への道を切り開く。しかし、この結果は、欠乏の問題を最終的に打破する世界社会主義経済体制を建設し発展させることを通じてのみ、達成される。その段階に達する唯一の道である世界革命のための闘争に反対して、モスクワから北京までのスターリニスト体制は、それぞれの社会における支配的民族の特権的地位を防衛している。

戦後、スターリニスト支配が東欧へと拡大したことで、ポーランド人やハンガリー人などを踏みにじっていたのは、今や「共産主義者」であった。始めから、トロツキストは、社会革命の獲得物を防衛し、それを国際的に拡大するため、労働者階級の政治権力に向けた綱領の中心に、民族の権利とプロレタリア民主主義の闘争を据える必要があった。しかし、これこそ国際共産主義者同盟が拒否したものである。我々は、政治革命の必要性を動機づけるため、民族抑圧の感情を利用する代わりに、そうした感情を徹底して反革命だと無視し、抑圧された人々による民族主義の表出を、反ユダヤ主義、聖職者、反女性、ナチス愛好者などと片づけた。これは、1956年のハンガリーの教訓に完全に反していた。ハンガリーではこの時、発展しつつある労働者政治革命がスターリン主義に対して民族蜂起の形を取った。

ソ連邦の崩壊を踏まえて国際共産主義者同盟の展望を要約する形で、1992年の国際大会文書は次のように述べている。「スターリニスト体制の崩壊は、プロレタリア政治革命か資本主義反革命のいずれかに導くだろうが、それは、危急の時の労働者階級の政治的意識、つまり、ブルジョア民主主義的幻想と反ソ民族主義と対比しての社会主義的願望の相対的な力に依存している。(『Spartacist』[英語版]47-48号、1992-93年冬、『Spartacist』1994年1月)。この主張は、本質的な真理を述べてはいるが、社会主義的意識と民族民主主義的願望との間の完全な対立を描いただけである。1981年、ポーランドの反革命家たちが権力獲得に乗り出したとき、スパルタシスト・テンデンシーが要求したことは正しかった。すなわち、連帯の反革命を阻止せよ!しかし、問題はこれをどのように実現するかであった。

必要だったのは、反革命の民族主義者とスターリニストに対抗して、労働者の社会主義的願望と民族の諸権利の防衛を結合させることであった。労働者を連帯から分裂させるために、トロツキストは次のことを説明する必要があった。すなわち、連帯の綱領は、労働者を直に帝国主義の屈従へと導き、民族抑圧を深化させ、資本主義の打倒の結果としてもたらされた社会的獲得物を破壊し、スターリニストの裏切りの支配に対する共通の闘争のなかで、ポーランドとロシアの労働者を団結させるという展望をも破壊するものだということである。トロツキストは、独立したポーランドの労働者共和国のための要求を、ヤルゼルスキとクレムリンの官僚たちを放逐し、帝国主義に対する闘争でポーランドとソ連の労働者を団結させるという要求と結び付ける革命的な国際主義綱領を対抗させることが必要であった。

民族抑圧との戦いに着手するのを拒否することにより、スパルタシスト・テンデンシーは、こうした革命的防衛主義の展望を決して打ち出すことができなかった。モスクワによる支配に憤慨する大衆にたいし代わりに提供できるのは、ポーランドとロシアの労働者の「歴史的団結」に対する空虚なアピールと、労働者国家を擁護するために硬直化したクレムリンの官僚カーストへの依存だけだった。ポーランドとソ連のスターリニスト政府が連帯阻止に動いたとき、スパルタシスト・テンデンシーは、次のように宣言して、トロツキストの防衛主義をひっくり返した。

もしクレムリンのスターリニストたちが、彼らの必然的に残忍でばかげたなやり方で、連帯を阻止するため軍事介入するならば、我々はこれを支持する。我々はこれに前もって責任を負う。すなわち、彼らがたとえどんなばかげたこと、残虐行為を犯そうとも、我々は連帯による反革命の鎮圧を防衛することに尻込みはしない。」

—「連帯の反革命を阻止せよ」『Workers Vanguard』289号、1981年9月25日

これはスターリニスト官僚制への政治的支持声明であった。それは、その綱領全体がソ連とポーランドの労働者国家の防衛を掘り崩すスターリニストから政治権力を奪い取るため、両国の労働者を動員することに完全に反している。

国際共産主義者同盟は、民族問題でスターリン主義への屈服を「理論的」に正当化するなかで、自決や他の民主的諸問題は、労働者国家の防衛に、すなわち「階級問題」に従属すると繰り返し宣言した。確かに、ロシアの内戦中にメンシェビキがジョージアで行ったように、帝国主義に支持された勢力が、反革命の結集点として、民族民主主義の旗を掲げた多くの歴史的事例が存在している。そうした場合、労働者国家の防衛はその時点での主要な必要事ではある。しかし民族抑圧という現実とそれと戦う必要性を消し去ることはしない。しかし、国際共産主義者同盟はこうした歴史を悪用し、労働者国家における民主的で民族的な諸権利のための闘争を全面的に拒否した。これは、ソビエト労働者国家における大ロシア排外主義のいかなる痕跡をも取り除くというレーニンの戦いに真っ向から対立していた。レーニンが彼の「最後の闘争」を行ったのは、メンシェビキの敗北直後のジョージアにあった。この闘争は、ロシアの抑圧に対するジョージアに深く根差した不満を悪意を持って踏みにじっていたスターリンとその仲間に対してなされたものである。国際共産主義者同盟に対する論争だったかもしれないもののなかで、レーニンは次のように書いた。

「抑圧民族の民族主義と被抑圧民族の民族主義、大民族の民族主義と小民族の民族主義とを区別する必要がある。…

「問題のこの側面を不注意に扱い、『社会民族主義』という非難を不注意に投げつけるグルジア人[スターリンとオルジョニキゼを指す](ところが、彼自身がほんとうの、真の『社会民族主義者』であるばかりか、粗暴な大ロシア人的デルジモルダなのだ)は、そのじつプロレタリア的階級連帯の利益をそこなう者である。なぜなら、民族的不公正ほど、プロレタリア的階級連帯の発展と強固さを阻害するものはなく、また、平等感とこの平等の侵害―たとえ不注意からの侵害にせよ、たとえ冗談のつもりでなされた侵害にせよ―ほど、自分の同志であるプロレタリアによってこの平等が侵害されることほど、『侮辱された』民族の人々が敏感に感じるものはないからである。そこで、この場合には、少数民族にたいする譲歩とおだやかさの点でゆきすぎるほうが、ゆきたりないよりはましである。だから、この場合には、われわれが民族問題にたいしてけっして形式的な態度をとらず、抑圧(または大)民族にたいする被抑圧(または小)民族のプロレタリアの態度にかならず見られる違いをつねに考慮にいれることが、プロレタリア的連帯の、したがってまたプロレタリア連帯の、したがってまたプロレタリア的階級闘争の、根本的利益からみて必要なのである。」

-民族問題または「自治化」の問題によせて(つづき)(1922年12月31日)

レーニンの闘争に反対して、国際共産主義者同盟が反革命から引き出した教訓は、労働者国家におけるあらゆる民族感情の表出を反革命だとさらに力を入れて非難することにした。これが、1993年10月に国際執行委員会(IEC)によって採択された文書の背景である。この文書は、トロツキーによる独立ソビエト・ウクライナの要求を拒否した(「トロツキーによる独立ソビエト・ウクライナの擁護に関して」『スパルタシスト』[英語版] 49-50号、1993-94年冬を参照のこと)。トロツキーは、第二次世界大戦が迫るなかで、これを緊急な要求として掲げた。この要求は、スターリンの支配下で残忍な抑圧に苦しんでいたウクライナ大衆の公正な民族感情を導くことを意図したものである。そしてそれは、ソ連における政治革命とその時資本主義支配下にあったウクライナの西部での社会主義革命に向けて導こうとしたものだった。トロツキーは、ボルシェビキ・レーニン主義者(トロツキスト)にたいして、ヒトラー主義者や他のウクライナ民族主義の反革命支持者から十月の獲得物を防衛し拡大するのに欠かせないとして、この大義を擁護するようはっきりと呼びかけたのである。

国際共産主義者同盟はこれのすべてを拒否した。国際執行委員会の文書は、遠慮がちな言い表しで、1939年の状況の経験的評価の観点から、トロツキーの呼びかけを拒否した。例えば、我々は、トロツキーが「ウクライナ大衆の間の反ソ的態度を過大評価していた」とか、また親ナチのウクライナ民族主義者は「多数の支持者を決して勝ち取ることができなかった」と書いた。それはまた、次のように暗示しながら、トロツキーの立場を著しく改ざんした。すなわち、我々は、トロツキーが「ウクライナ国内に限定した」政治革命を主張したことを示唆した。または、私たちは「実際最初からその革命自身を拡大する必要があるだろう。それは、ソ連邦一帯にスターリニスト官僚制に対する決定的な闘争に導くだろう」と書いた。しかし、トロツキーが独立ソビエト・ウクライナを要求したのは、正にソ連邦の政治革命と西側の社会主義革命を促進するためであったのだ!

この文書の結論部分は、その偏向した議論の目的が、スターリニストの抑圧に対して向けられた自決のすべての要求に反対することだったと明らかにしている。文書は次のように記している。ソ連邦の末期に勃発した民族運動は、「初めから、公然と親資本主義で親帝国主義の勢力によって組織され、推進され、指導された」ものであり、「あまねく、資本主義の復活と西側帝国主義秩序への統合を達成するための手段とみなされた。」しかし、だからこそトロツキストは、東欧とソ連邦の構成共和国の諸民族の民族的権利に向けた共産主義の闘争を行う義務があった。それは、大衆をあらゆる親帝国主義勢力から分裂させ、プロレタリア国際主義の綱領に勝ち取ろうとすることである。

国際共産主義者同盟が、トロツキーによる独立ソビエト・ウクライナに向けた呼びかけの拒否を撤回するのは極めて重要である。これは単なる歴史的な記録の問題ではない。中国では、帝国主義者たちは、この労働者国家の打倒を促進するため、長い間、中国共産党の漢排外主義によるチベット人やウイグル人などの抑圧に付け込んできた。トロツキーの綱領的なアプローチは、チベット人とウイグル人の民族的な不満を反動家たちから引き離し、スターリニスト支配に対するプロレタリア的反対の強力な流れに導くための介入にとって、緊急に必要である。そして1949年の革命の獲得物を防衛し拡大する政治革命の梃子として民族自決権を擁護するのである。

他方で、我々の古い宣伝がたびたび行ったように、スターリンニストを単に「民族主義者」だと非難するだけでは不十分である。つまり必要なことは、トロツキスト指導部だけが、民族抑圧、スターリン主義、反革命、帝国主義に対抗する共通の闘争のなかに、多数民族と少数民族の人々を団結させることができるのを指摘することである。中国の大衆は、いまだ存在している他の歪曲された労働者国家の大衆と同様に、帝国主義の銃口が向けられ、そして帝国主義に経済的に服従させられている。そして、彼らの民族主義はこの抑圧に対する反動である。こうした社会では、スターリニストは、帝国主義に対する民族の防衛者として自身を打ち出すのである。労働者国家の創設は、真の民族解放の基礎を据える質的な踏み段であった一方で、この解放は、スターリニスト官僚とその帝国主義との「平和共存」への依存により、ことごとく妨げられてきた。要するに、スターリン主義は民族解放のための綱領ではないのである。


1970年代半ばに、スパルタシスト・テンデンシーは、スリランカの革命的労働者党(RWP)のエドモンド・サマラコディによって、民族問題と帝国主義の綱領に関して挑まれた。サマラコディは、相当な書簡のなかで、正しく我々の綱領の重要な欠陥を明らかにした。彼は、我々が被抑圧国と抑圧国を区別していないこと、「帝国主義者と土着のブルジョアジーとの間の一方的な利害の一致」を主張していること、帝国主義が「世界の労働者階級の主要な敵」だということを否定していることを指摘した。サマラコディは1975年の書簡で次のように説明している。

民族ブルジョアジーは帝国主義の代理人であるというレーニン主義・トロツキー主義の正しい立場から、SL[スパルタシスト同盟]は、民族ブルジョアジーとかそうした封建的資本主義の支配者と帝国主義者との間には矛盾がないという誤った結論を引き出している。したがって、SLは、被抑圧国における帝国主義の代理人、すなわち民族ブルジョアジーは帝国主義そのものであり、植民地と半植民地諸国における唯一の闘争は反資本主義の闘争であり、反帝国主義の闘争は存在しないと結論付ける。」

-「民族問題:RWP-SL/米国の相違」1975年10月31日、『国際討論ブリティン』7号(1977年3月)

サマラコディがアイルランド、イスラエル、キプロスやケベックに関して引き出した政治的結論は間違っており、また我々はRWPと他の意見の相違があった。にもかかわらず、彼はこの問題に関する我々の方法の批判において、本質的に正しかった。彼の挑戦は、スパルタシスト・テンデンシーにとって、根本的に方向を改める機会を与えた。しかしその代わり、我々は修正主義の路線を強化させ、このグループとの潜在的な合同から自身を遮断し、新植民地世界そのものから自らを閉ざしたのである。

2017年の民族問題に関する闘争によってのみ、この枠組みに最初の打撃が与えられた(『Spartacist』[英語版]65号、2017年夏を参照のこと)。この闘争は、ケベックや他の場所に関する数十年に亘った排外主義のプロパガンダを覆し、初めて、民族解放闘争が革命の原動力であるという極めて重要な理解を打ち出した。しかし、2017年の戦いの政治的内容には根本的な欠陥があった。第一に、それは、我がテンデンシーの歴史的指導者、ジム・ロバートソンが民族問題にたいする正しいアプローチを持っているという思い込みによって形成され、それゆえ、永続革命に反している多くの立場を支持していた。第二に、民族解放闘争の共産主義指導部の必要性を打ち出すことなしに、「民族問題に関するレーニン主義」を語ることはできない。この問題が2017年の戦いにおいて何の役割も果たさなかったので、古い綱領が、被抑圧諸民族により好都合な自由主義の変種に取って代わっただけだった。最後に、そして最も重要なことは、6カ月以上に亘って党を揺るがした議論は、その時世界で起こっていたすべてのことから完全に切り離されていたことである。したがって、国際共産主義者同盟の第7回国際大会は、世界へ介入する際に、党を指針とするものは何もなかった。

スパルタシスト・テンデンシーによる永続革命の修正は、被抑圧諸国に向けた我々の全活動を無力にしてきた。我々が、我が歴史の多くを見直し修正した唯一の理由は、世界の大部分で革命的指導部のために戦う必須な前提条件だからである。我々は、鈍いセクト主義の刃を捨て、レーニン主義の鋭い綱領に取って代えている。我々の現在の任務はそれを実行することである。トロツキーは次のように警告した。

「帝国主義の現代において、植民地諸国に根をおろすことのできない『革命的』組織が、満足に育ちえぬ運命にあることは一つの法則だといってよいであろう。」

-「新たな教訓」(1938年10月